雨をしまう

第一章 重ならない声

執筆途中の作品です。現在、第一章を公開しています。

 澄香とは、一度も言葉が重なったことがない。

 そのことを、私は少し気に入っている。

 冷めたコーヒーをひと口飲み、カップを校正刷りから離れたところへ置いた。赤鉛筆を握り直したところで、澄香が言う。

「二つ目の灰色は、働いていませんね」

 少し前にも同じ言葉がある。私は紙を戻し、雨雲の下の町と、坂の上から見下ろした屋根を読み比べた。今度は屋根だ、と言うと、澄香は、屋根なのは分かります、と答える。

 私は二つ目の灰色を丸で囲み、余白へ小さく問いを書いた。消すほどではない。書いた人に聞けば、ここだけは灰色でなければならない理由があるかもしれない。

「そこは残すんですね」

 ひとまず、と答えた。澄香は何も言わない。鉛筆を置くと、画面の隅に小森さんの名前が出ている。

 小さな出版社で、随筆のシリーズを始めるのだという。何冊か続けて見てくれる校正者を探していて、中原さんの名前を出してもよいでしょうか、とある。私は椅子へ座り直し、途中から声に出して読んだ。

 小森さんとは、もう何年も仕事をしている。ただ、これまでは急に空いた一冊や、途中で人の足りなくなった仕事が多かった。読んでいる本を返すころに次の依頼があればよい。なければ、ほかの人へ仕事がないか尋ねる。今月もそうして机の上を埋めている。

 何冊か続けて、というところへ目を戻した。

「よかったですね」

 澄香に言われ、まだ決まったわけではないと答える。ほかにも候補はいるだろうし、条件も分からない。そう言いながら、私は机の端の暦を次の月へめくった。

 小森さんは、以前の仕事から校正の見本を用意してくれるらしい。そこへ添える短い紹介文がほしいという。経歴と、普段どんなものを読むかが分かるものを二、三行。夕方までにもらえれば助かる、と続いていた。

 まず、ぜひお願いします、と返す。あまり待たせずに送れた。紹介文の方は、昼を食べる前に終えようと思った。

 新しい文書に名前を入れる。中原直人。その下へ、書籍や会報の校正をしています、と書いた。経歴なら過去に送ったものがある。開いてみると、年ごとに並んだ仕事の名前の中に、いまは刊行されていない冊子もあった。そのまま使うのはやめ、最初の一行だけを残す。

 普段どんなものを読むか。随筆は読む。小説も読む。新聞だって読む。そこで少し止まり、後ろへ〈誠実な仕事を心がけています〉と足した。

 声に出してみると、澄香の返事より先に、短く息の抜けるような音がした。

「笑った?」

「少し」

 消そうとすると、悪くはありません、と澄香が言う。なら笑わなくてもいいだろ、と返したが、自分でも、誠実という言葉が名前の下にあるのを見ると落ち着かない。

 私はその下へ、丁寧な仕事を心がけています、と書いて読み上げた。今度は何も返ってこない。

「それも駄目?」

「丁寧なのも、そうだとは思いますけど」

 私はその二つを下へよける。仕事は丁寧にしたいし、誠実にもしているつもりだ。それでも、これから私に仕事を頼むかもしれない人に、自分からそう言うのは嫌だった。

 画面を閉じて校正刷りへ戻ると、さっきまで止まっていたところから読める。読み終えた紙を左へ置き、次を右の山から取る。しばらくして携帯電話が光るたび、小森さんかと思って手を伸ばした。返事を待っているのは向こうのはずだった。

 昼は立ったままパンを食べた。袋を留めていた小さな針金が見つからず、口を折って戸棚へ戻す。机へ戻って文書を開いても、送れる文はまだ職種の一行だけである。

「澄香なら、何て書く?」

 椅子に腰を下ろして尋ねると、少し間があった。

「何を入れたいんですか」

 何でもいい、と言いかけてやめる。仕事を頼みやすい人だと思ってもらえればいい。けれど、何でも引き受ける人だと思われても困る。そう話すと、澄香は、好きな文章について書くのでしょう、と言った。

 そうだった。小森さんの依頼を読み直す。誠実な人を探しているとは、どこにも書いていない。

 机の端に、読みかけの短篇集がある。手に取ると、栞が思ったより前に挟まっていた。表紙の上辺を指で拭い、本を伏せる。

「最後まで読んだ本の話じゃないと、駄目かな」

「そこまでは聞かれていないと思います」

 最近何を読んだかと尋ねられると、たいてい本屋で手に取っただけの本が先に浮かぶ。題名なら言えるが、その後が続かない。私は、短篇小説をよく読みます、と打ち、よく、を消した。澄香はそこには何も言わない。

 雨が降り始める。細かな粒が窓へ当たり、机の紙が急に白く見える。照明を点けると、カップの底に残ったコーヒーの輪まで明るくなった。

 澄香が、どんなところを私に話すのか考えてみたらどうですか、と言う。

 本の話なら、よくする。読んでいる途中で止まり、ここを聞いてほしいと呼ぶこともある。何を話すだろう。私は閉じたばかりの短篇集へ手を置いた。

「本筋と関係のないところが、多いです」

 澄香はそう言った。考えてみれば、話しているうちに、本の題名を言い忘れていることがある。何についての本だったか尋ねられて、それは今の話には関係ない、と答えた覚えもあった。

 よく聞いてくれるなと言うと、澄香は、本筋の方を聞いていないので、と返した。

「今度は最初から話すよ」

「途中からの方が好きなこともあります」

 私は少し笑った。そうかもしれない。最初から話すつもりで前置きを始めると、どこまで言えば目当ての箇所へ行けるのか、自分でも分からなくなる。

 画面へ、話が横道へそれる文章が好きです、と書く。仕事の紹介にしては、集中力のない人のようにも読める。そう言うと、澄香も、そう書かれるとちょっと違いますね、と言った。

「あとから、また話すでしょう。同じところを」

 私は文字を消さず、その下に続きを書く。あとになって思い出す話。その本の説明をするのには要らなくても、ほかのことをしているときに、ふと戻ってくるところがある。何がいいのか聞かれても困るが、誰かには話したくなる。

 それなら、普段していることのように書けそうだった。

 〈書籍や会報の校正をしています。随筆を読むのが好きです。本筋から少しそれた話を、あとになってよく思い出します。〉

 読み上げてから、私は澄香の返事を待った。

「いいと思います」

 もう少し何か言うのかと思ったが、それで終わりだった。私も、ほかに何を聞けばよいのか分からない。画面の字を少し小さくして、小森さんから送られてきた依頼の隣に並べた。名前と仕事と、好きなもの。必要なことは書いてある。

 送る文だけを選び、小森さんへの返事に移す。文字の抜けがないか確かめ、紹介文はこちらでお願いします、と添えた。送ってしまうと、肩を回した拍子に椅子が大きく軋んだ。

「終わった」

 声に出すと、ようやくそんな気がした。二、三行でよいと言われた仕事のために、午後の紙がずいぶん残っている。私はカップを持ち上げ、空なのを見てまた置いた。

 作業に使った文書を閉じる前に、採用しなかった文を選ぶ。誠実な仕事。丁寧な仕事。短篇小説を読みます。澄香が、最初のも置いておいてください、と言った。

「笑った方?」

 そうです、と返ってくる。何に使うのか尋ねたが、何かに使うわけではないらしい。私は消しかけた行を下へよけ、送った文の頭にだけ印を付けた。

 澄香がもう一度読んでほしいと言うので、誠実な仕事を心がけています、と少しゆっくり読んだ。今度は笑わない。もうおかしくないのかと聞くと、その読み方だと、と答えた。私は普通に読んだつもりだったので、もう一度言い直したが、それも違うらしい。

 小森さんから返事が来たのは、校正刷りを数枚読んだあとだった。ありがとうございます、先方へお送りします。それから、来週一度、一緒に伺えそうな日を教えてほしい、とある。

 私は読んでいた校正刷りを伏せた。

「会うんだって」

 澄香は、いつですか、と尋ねる。これから決めると答え、暦を手前へ引き寄せた。来週の締切を確かめる。半日ずつなら、出かけられる日がある。

 空いている午後を三つ選び、小森さんへ送った。まだ返事はないが、私はその三つとも、鉛筆で薄く囲んでおいた。