本日、未来は気分しだい
再構成版
ルルの死亡記事が、朝刊の献立欄に載った。
〈ルル。本日午後十一時五十九分。二十歳。付け合わせは季節の野菜〉
ルルは記事を二度読み、それからパンを裏返した。焦げた面がこちらを向いた。
「順番がおかしくありません?」
「野菜の?」
人形屋さんは、卵を割ろうとしていた。卵は割られる気配を察し、小さな声で留守だと言った。
「死ぬ方の」
「ああ」
人形屋さんは卵を戸棚へ戻した。
「夕刊だと間に合わないそうだ」
工房の窓の外では、弔問客が列を作っていた。先頭の男は花束を、二番目の女は花瓶を、三番目の男は花瓶を置くのにちょうどいい悲しみを抱えている。四番目はまだ生まれていなかった。行列の進みは悪い。
ルルは、自分の胸に指をあてた。
薄い樹脂の下で、砂時計がさらさら鳴っている。残りの砂は、小さな山を作っていた。工房の人形は二十年で止まる。交換できるのは腕や足や髪で、二十年の方は交換できない。
何度も聞いた説明だった。
今日は初めて、それを作った人に腹が立った。
人形屋さんは、焦げたパンを見ていた。
「焼き直そうか」
「また焦げますよ」
「うん」
二人とも手を出さなかった。
そのとき、奥の部屋で大きな音がした。
何かが倒れ、何かが割れ、誰かが「あ」と言った。
続いて、ルルが出てきた。
ルルと同じ顔。ルルと同じ髪。ルルと同じ、右の口角だけ少し上がる笑い方。ただし裸足で、左足の親指に〈次〉と書いてある。
「すみません。わたしを入れてた水槽、割れました」
人形屋さんは椅子から立ち上がった。
「まだ起きる時間じゃないのに」
「外がうるさかったので」
窓の外で、弔問客が鐘を鳴らした。隣の客が、鐘を鳴らしたことを惜しんで泣き始めた。
新しいルルは、食卓の新聞を手に取った。
「これ、わたしですか」
「たぶん、わたし」
古いルルが答えると、新しいルルは自分の胸を両手で確かめた。
「よかった」
言ってから、顔を上げた。
「よくなかった」
その言い直しが、ルルには少し好きだった。
工房の説明では、新しいからだにはルルの記憶が入っている。名前も、仕事も、好きなものも引き継ぐ。今夜には、今日の記憶も送られる。
明日、ルルは新しいからだで起きる。
そういうことになっていた。
「朝ごはんは?」と、新しいルルが聞いた。
「まだ」
「じゃあ、わたしもまだですね」
「わたしが食べても、あなたのお腹は空いてると思う」
「そうか」
新しいルルは、もう一脚の椅子を引いて座った。一本の脚が短くて、椅子はがたんと傾いた。
「この椅子、直してくれるって言ってましたよね」
人形屋さんが、二人を交互に見た。
「どっちに?」
「わたしに」
二人が同時に言った。
しばらくして、玄関から棺桶が入ってきた。
棺桶は足を拭き、帽子を取った。
「お迎えです」
「まだです」
「存じております。本日は大変混み合っておりますので、早めの収納にご協力ください」
蓋が開いた。中には枕と、花と、長時間の待機に適した雑誌があった。
ルルはコートを着た。
「出かけます」
「ご予定は」
棺桶が尋ねた。
予定はなかった。二十年間、海へ行こうと思っていた。それ以外の用事が、いつも先にあった。
「海」
人形屋さんが窓の外を見た。朝の空は晴れていて、端の方に雨の下書きがあった。
「雨になるよ。関節、濡らさないように」
「最後まで手入れが必要なんですね」
返事はなかった。
新しいルルが立ち上がった。
「わたしも行きます」
「あなたは、ここにいても」
「海、見たことないので」
ルルはその顔を見た。
「わたしの記憶、入ってるんでしょう」
「だからです」
玄関のところで、人形屋さんが傘を渡した。古い傘だった。握りの部分に、ルルの指の形が少しだけ残っていた。
「帰っておいで」
どちらに言ったのか、今度は誰も聞かなかった。
街は、ルルが死んだことをもう知っていた。
パン屋が黒いパンを焼いていた。薬屋が喪に服するために服を脱いでいた。市電は一分間の黙祷を行い、その一分を乗客に割り勘で請求した。
「ルルさん、惜しい方を亡くしました」
花屋が店先から頭を下げた。
「まだいます」
「ええ。わたしたちの心の中に」
「店の前に」
花屋は、店の前に置かれた植木鉢を見た。
「これでしたか」
ルルは植木鉢を蹴りそうになって、やめた。花には関係がない。
新しいルルが横で小さく笑った。
「今、蹴ろうとしました?」
「少し」
「わたしの記憶だと、蹴らない人でした」
「まだ今日の分が入ってないから」
後ろでは棺桶が、忙しそうについてきていた。
「ついてこないでください」
「故人のお気持ちを最優先しております」
「今、その故人のお気持ちを言いました」
「生前のお気持ちは参考資料になります」
棺桶は、蓋の内側に鉛筆で何かを書いた。
二人は角を曲がり、次の角も曲がった。棺桶は角を曲がれず、ひとつずつ角を丸くして追ってきた。街並みが少しずつ柔らかくなった。
広場に出ると、海への道がなくなっていた。
昨日まではあった。坂を下り、橋を渡り、白い駅から電車に乗る。それをルルは何度も地図で確かめていた。
今朝の道には、〈追悼のため通行止め〉と書いてある。
新しいルルが柵に触れた。
「誰の?」
「わたし」
「人気者ですね」
柵の向こうにあるはずの坂も橋も、白い駅も、すっかり白い菊になっていた。
ルルは一輪抜いてみた。根に、小さな改札機がついていた。
「切符をお入れください」
「海へ行きたいんですけど」
「お気持ちはお察しします」
改札機が閉じた。
広場の中央では、未来屋が明日を売っていた。
軒先に明日が干されている。晴れの明日は薄く、雨の明日は重そうだった。店主は奥で明後日をほぐしていた。いったん絡まると、一週間になるらしい。
ルルはカウンターを叩いた。
「海へ行く明日はありますか」
「どなたが」
「わたしが」
店主は二人を見た。
「どちらが」
「こちらが」と、新しいルルが古いルルを指した。
店主は目を伏せた。
「ああ、新聞、拝見しました。ご愁傷さまです」
「その挨拶、今日はもうお腹いっぱいです」
「では、明日はお包みできませんね」
店主は、古いルルの身分証を読むと、新しいルルの方へ一枚の明日を差し出した。
〈ルルは目を覚ましました。昨日までと同じように〉
まだ乾いていないインクが、新しいルルの指についた。
「海がありません」
「追加できますよ。旅費は別になりますが」
「わたしには?」
古いルルが聞くと、店主は、困ったように指を擦り合わせた。
「引き継ぎのお客様ですから」
ルルはカウンターの端を握った。
薄い木が、指の下でみしりと鳴った。
新しいルルは、もらった明日を光に透かしていた。
「昨日までと同じように、って、転ぶ場所も同じですか」
「ご希望なら」
「昨日、階段で転んだんです。わたしは、そのとき水槽にいましたけど」
新しいルルは膝を撫でた。そこには傷がなかった。
古いルルの膝には、白い傷があった。
「あれ、痛かったですよね」
「痛かった」
「痛かったの、覚えてます」
二人は、それぞれの膝を見た。
店主が気を利かせて、明日の裏に海を描き足した。上手な海だった。波がきちんと一列に並んでいた。
新しいルルは、その明日をカウンターへ戻した。
「今の海にします」
「今日はもう、海は帰りました」
「どこへ?」
「さあ。海の家じゃありませんか」
店主は腕時計を見た。時計の中で、小さな店主が同じように腕時計を見ていた。
「海にも暮らしがありますから」
ルルは地図を広げた。
海と書いてあったところに、〈留守〉と書いてある。
地図を傾けると、留守から水が少しこぼれた。
新しいルルが、それを指で受けた。
「しょっぱい」
ルルも触れようとしたが、そのときにはもう乾いていた。
海の家へ行く電車は、乗り遅れた人だけを乗せていた。
駅員は、二人の切符を確かめた。
「出発は九時十五分です」
時計は九時十四分だった。
「一分待てばいいんですね」
「待っている方は乗り遅れられません。乗るつもりだった方ですので」
駅員は切符を返し、笛を吹いた。笛から駅員が一人出てきて、交代した。
ルルはベンチに座った。
新しいルルは、売店の前に立っていた。揚げ物の匂いがした。今日のおすすめは、何かを忘れるためのコロッケだった。
「それ、おいしいですか」
「何が入ってるか、知りたい方?」
売店の女が聞いた。
「知りたくない方」
「じゃあ、おいしいよ」
新しいルルは、コロッケを二つ買った。
ルルは包みを受け取り、割ってみた。中から湯気と、細かく切った玉ねぎが出てきた。
「玉ねぎ、苦手なんだけど」
「そうでした」
新しいルルは、自分のコロッケを見た。
「食べたら、苦手になりますかね」
「なると思う」
「じゃあ、ひと口だけ」
かじると、衣が大きな音を立てた。
新しいルルは黙った。もう一度かじった。それから、残りを口へ押し込んだ。
「どう?」
「だめですね」
「やっぱり」
「好きです」
ルルは、自分の半分を差し出した。
新しいルルは、それも食べた。
パンくずがコートに落ちた。新しいルルはそれを摘まみ、口へ運んだ。ルルはそんなことをしたことがなかった。記憶にないほど小さい頃なら、あったかもしれない。
二人が売店へ戻って、もうひとつ買おうとしたとき、電車が出ていった。
「あ」
駅員が嬉しそうに走ってきた。
「たいへん結構な乗り遅れでした」
去った電車の影が、ホームに残っていた。
二人は影に乗った。座席は黒く、窓は明るかった。電車より、少し涼しかった。
最後のところで、棺桶が蓋を挟んだ。
「危険です。閉まる影に蓋を挟まないでください」
車内放送に叱られ、棺桶は蓋を引っ込めた。
窓の向こうでは、街が後ろ向きに歩いていた。橋が川を渡り、学校が子どもたちに教えられていた。子どもたちは、学校にもう一度やってみるよう言った。
ルルは笑った。
声を出して笑ったのは、その日、初めてだった。
新しいルルが窓に顔を近づけた。
「あの橋、わたしたち、渡ったことありますよね」
「三年前」
「欄干に鳥がいて」
「ああ」
「鳥の方が、こっちを見物してた」
「青い鳥」
「白かったですよ」
ルルは考えた。
白かった。
青かったようにも思えた。
新しいルルが言った。
「戻って確かめます?」
窓の外で橋が小さくなっていった。ルルは首を振った。
影の電車は、昼を過ぎ、昼の裏を通り、誰かの長い昼寝を迂回した。
午後の終わり、車掌が切符を見にきた。薄い顔の男だった。どちらの横顔も、正面にあった。
「お一人、片道ですね」
ルルはうなずいた。
「お帰りは」
「間に合えば」
車掌は切符に穴を開けた。
開いた穴から、小さな夕焼けが見えた。
新しいルルが、それを覗き込んだ。
「もう夕方ですか」
「穴の向こうだけです」
車掌は切符を返した。
「こちらも、もうすぐ」
ルルの指先が、少し動きにくくなっていた。
切符をコートのポケットに入れるのに、二度かかった。
新しいルルは何も言わなかった。
窓を開けた。
風は塩の匂いがした。
海の家には、海の靴がなかった。
代わりに、玄関先に濡れた水平線が掛けてあった。
二人が呼び鈴を押すと、家の中から、ずいぶん待たされてきたらしい音がした。戸が開き、エプロンを着た女が顔を出した。
「海なら、まだ戻りませんよ」
「ここに帰ったと聞いたんです」
「誰から?」
「未来屋さん」
「あの人は先のことしか知りません。今のことを聞いちゃだめ」
女は二人の靴を見た。
「上がります? 濡れますけど」
上がった。
家の中は、膝まで水に浸かっていた。
食卓の上ではタコが編み物をしていた。八本の腕を使って編んでいるのに、袖はいつまでも二本だった。テレビは海の留守を中継していた。何も映っていなかったが、視聴率は高いらしい。
女は台所からお茶を持ってきた。
「海の奥さんですか」
新しいルルが尋ねると、女は笑った。
「留守番」
湯呑みを二つ、水面に置いた。
「奥さんは、海が広すぎて会えないんですって」
ルルは湯呑みを両手で捕まえた。
あたたかかった。
「どこへ行けば会えますか」
「今日はお見舞い。空が具合を悪くしたから」
女が天井を指した。
天井に、薄い染みがあった。
その向こうで、何か大きなものが寝返りを打った。
「海が、空の上に?」
「ときどき。下にばかりいると腰に来ますからね」
ルルは湯呑みを置いた。
「上がる道は」
「ないですよ。空ですから」
女は新しいルルの足を見た。
「あなた、新しいのね」
左の親指に、まだ〈次〉が見えていた。
「はい」
「じゃあ、明日でもいいでしょう。海はたいてい戻ります。夕飯、置いてありますし」
「この人は、明日は来られないんです」
新しいルルが言った。
女は、初めて古いルルの顔をよく見た。
「ああ」
ルルは、次の言葉が来るのを待った。
女は立ち上がり、棚から大きなタオルを取った。
「じゃあ、お茶ばかり飲ませていられないわね」
タオルを二人に渡した。
それだけだった。
ルルはタオルに顔を埋めた。どこかで嗅いだことのある洗剤の匂いがした。記憶を探すのは、やめた。
外へ出ると、雨が降っていた。
ただし、上へ。
砂地から雨粒が生まれ、空へ飛んでいく。屋根が裏側から濡れ、鳥が困って腹に傘を差していた。
新しいルルが手を伸ばした。
掌に下から雨が当たった。
「これに乗れませんか」
雨粒は小さかった。
二人は大きかった。
「無理だと思う」
「小さくなれば」
「無理だと思う」
「無理だと思う記憶、いっぱいありますね」
ルルは返事をしなかった。
後ろで棺桶が咳払いをした。
「お手伝いしましょうか」
二人が振り返ると、棺桶は得意そうに蓋を開けた。
「水に強い材質です」
ルルは中を見た。
枕。花。長時間の待機に適した雑誌。
「乗ったら、閉めませんか」
「もちろん閉めます」
「じゃあ、だめです」
「風が入りますよ」
「入れてください」
棺桶は少し考えた。
「では、蓋はお客様にお預けします」
ルルは蓋を外した。
思っていたより軽かった。
棺桶が砂地に横たわった。新しいルルが先に入り、手を差し出した。ルルはその手を握った。
同じ形の指だった。
こちらの指が、向こうの指より冷たかった。
花と枕を外へ出し、蓋を帆にした。
二人で傘を逆さに開いた。
上へ降る雨が、傘の中に溜まった。
雨粒は上へ行きたがった。傘は重くなり、棺桶は軽くなった。
砂地が離れた。
海の家の女が戸口に出てきた。タコが隣で、まだ袖を編んでいた。
「見つけたら、言ってちょうだい!」
女が叫んだ。
「夕飯、冷蔵庫!」
新しいルルが大きく手を振った。
海の家は小さくなった。線路は黒い糸になり、街は、テーブルの上にこぼした砂糖のようになった。
ルルは縁にしがみついていた。
高いところは苦手だった。
隣で、新しいルルが笑っていた。
彼女は苦手ではなさそうだった。
雲の腹をくぐると、海がいた。
空に、横になっていた。
暗い水がゆっくり盛り上がり、棺桶の下へ伸びてきた。傘の雨が海へ帰った。棺桶が水面に浮いた。
沖に、月が半分沈んでいた。
岸はなかった。
ルルは、しばらく口を開けていた。
来るまでに考えたことが、全部役に立たなかった。
新しいルルが水に触れた。
「海ですね」
「そうね」
「広いですね」
「うん」
二人とも、それ以上は上手に言えなかった。
棺桶が波に揺れた。
ルルは、片手を水へ下ろした。指の間を、知らない冷たさが抜けていった。
砂時計の音が聞こえなかった。
耳を澄ましたが、海の音ばかりだった。
「止まった?」
新しいルルが顔を寄せた。
ルルは右の指を動かした。左の指も動いた。
「まだ」
二人で息を吐いた。
人形に必要のない動作だった。二人とも、いつ覚えたのか知らなかった。
波の間から、黒い服を着た男が歩いてきた。
靴は濡れていなかった。男は足の下に、乾いた場所を順番に置いていた。
「ようやく」
男は棺桶の縁を掴んだ。
「喪主です」
顔のあるはずのところに、ルルの名前が書いてあった。
「どなたですか」
「ですから、喪主です。皆さま、お待ちです」
男が振り返ると、海の向こうに街が見えた。
弔問客の列。黒いパン。白い菊になった駅。
街は、二人を追いかけて空まで上がってきていた。
先頭の花屋が、植木鉢を抱えて泣いていた。
ルルは目を閉じた。
開いた。
街はまだあった。
「お願いですから、あと少し」
男は懐中時計を出した。
「もう、あと少しです」
十時四十三分だった。
男はもう一枚、懐から紙を出した。
「弔辞です。こちらの新しい方にお読みいただきます」
新しいルルは、紙を受け取らなかった。
男は読み上げた。
「『わたしは、ここにいます。悲しまないでください。からだが変わっても、わたしはルルです。わたしは――』」
「わたし、玉ねぎが好きです」
男の口が止まった。
新しいルルは、コートに残っていた最後のパンくずを取った。
「今日、好きになりました」
ルルは彼女の指先を見た。
男も見た。
パンくずは食べられて、なくなった。
男は紙を確かめた。
「そのような内容は」
「入ってませんね」
新しいルルは左足を引っ込めた。親指の〈次〉が、濡れて少し滲んでいた。
「わたし、今日のこと、明日も覚えていたいです」
「今日の記憶は、後ほど引き継がれます」
「わたしが食べた方の、コロッケです」
喪主は古いルルを見た。
「お困りでしたら、こちらで調整を」
ルルは首を振った。
「わたしの半分も、この人が食べました」
男はしばらく黙っていた。
それから、紙に小さく書き足した。
〈コロッケ、一個半〉
「これでよろしいですか」
新しいルルは、泣きそうな顔をした。
男はその顔を見て、ようやく安心したようだった。
「お別れは、おつらいものです」
ルルの胸の中で、歯車がひとつ滑った。
からだが傾いた。
新しいルルが肩を支えた。
向こうの街で、鐘が鳴り始めた。
一時間早かった。
誰かが早く始めれば、残りの誰かも早く始めるらしかった。
「待って」
ルルは言った。
鐘は聞かなかった。
弔問客たちが、一斉に花を投げた。白い花が海に落ち、水面を埋めていった。
新しいルルの腕が、ルルの肩を強く掴んだ。
「帰りたいですか」
工房を思った。
直っていない椅子。卵。焦げたパン。
人形屋さんの、手の甲の茶色い染み。
「帰りたい」
新しいルルはうなずき、男の持つ弔辞を掴んだ。
「お預かりします」
「あ、それは」
彼女は紙を折った。
半分にして、もう半分にして、角を起こした。
「舟、作ったことありますよね」
ルルは答えた。
「七歳のとき」
「沈んだ」
「すぐに」
「今度は沈めます」
紙の舟を海に置いた。
〈わたしは、ここにいます〉
その一行が、水を吸った。
舟が沈み始めた。
黒い服の男が慌てて、舟へ手を伸ばした。追悼の街が傾き、花が滑った。喪主の顔から、ルルの名前が少しずつ水へ落ちた。
「拾ってください! 最後の言葉です!」
男が叫んだ。
ルルは棺桶の縁を握ったまま、首を振った。
まだ、最後ではなかった。
沈む舟を、街が追いかけた。
花屋が植木鉢を頭に載せ、駅が菊の根をばたつかせた。鐘の音が水の中へ入って、丸い泡になった。
波が大きく持ち上がった。
棺桶が滑った。
海の端が、すぐそこに来た。
新しいルルが、ルルを抱き寄せた。
棺桶は二人を乗せたまま、滝になった空を落ちていった。
工房には、海が先に帰っていた。
人形屋さんは、床に広がった水を雑巾で拭いていた。
玄関に棺桶が滑り込むと、雑巾を投げ捨てた。
「ルル」
二人とも返事をした。
人形屋さんの手が、空中で止まった。
「ただいま」
古いルルが言った。
人形屋さんは彼女を抱え、いつもの椅子へ座らせた。額に貼りついた髪を、指でそっと剥がした。
もう十一時を過ぎていた。
新しいルルが、びしょ濡れのコートを脱いだ。
左の親指には、何も書いていなかった。
人形屋さんはそれを見た。
それから、工房の奥を見た。
次のからだへ記憶を送る機械が、明かりをつけて待っていた。紙のない印刷機に似ていた。二十年分のルルはもう向こうにあって、今日の分だけがこちらにあった。
「あと少しで、今日の記憶も送れる」
人形屋さんは古いルルに言った。
「海も、覚えていられるよ」
ルルは、新しいルルを見た。
彼女の髪から水が滴っていた。
床に落ちた水が、ゆっくり玄関へ向かっていた。
「あなたは、もう覚えてる?」
新しいルルがうなずいた。
「はい」
「怖かった?」
「落ちるときは」
「わたしは、ずっと怖かった」
新しいルルは、小さく笑った。
ルルも笑おうとした。右の口角だけが上がった。
人形屋さんが、機械の前に座った。
「送らない方が、いいのかな」
声は、二人のどちらにも向いていなかった。
ルルは答えようとした。
明日の朝、目を開けるところを想像した。
工房の天井。窓から入る光。直っていない椅子。
目の前の人形のからだを、欲しいと思った。
その人形が、海を思い出して笑っていた。
ルルは口を閉じた。
「今日は、二人ともいたんです」
しばらくして、そう言った。
人形屋さんは、機械の明かりを見ていた。
「そうだね」
明かりが消えた。
ルルは顔を伏せた。
これでよかったのか、わからなかった。
まだ、明日の朝を考えていた。
新しいルルが彼女の隣に椅子を持ってきた。
短い脚が、がたんと鳴った。
「これ、直してください」
人形屋さんがうなずいた。
「明日」
「今」
新しいルルが言った。
人形屋さんは作業台へ行き、木片と鋸を持ってきた。床に座り、椅子の脚を測った。
ルルはその頭を見ていた。
つむじの周りが、思っていたより白かった。
鋸が動いた。
木の匂いがした。
昔、ルルの指を初めて取りつけた日に嗅いだ匂いだった。
新しいルルも、それを知っているはずだった。
「名前、どうしましょう」
新しいルルが聞いた。
人形屋さんは鋸を止めた。
「ルルじゃ、ない?」
「呼ぶと、二人とも返事するので」
「明日からは」
人形屋さんは途中で黙った。
新しいルルは、壁のカレンダーを見た。
「水曜日」
「今日、金曜日だよ」
「名前です」
「水曜日?」
「まんなかにいて、落ち着きそうなので」
人形屋さんは、木片を手にしたまま、ルルを見た。
ルルは笑った。
その名前を選ぶのは、絶対にわたしではなかった。
「水曜日」
呼ぶと、新しい人形だけが顔を上げた。
壁のカレンダーで、水曜日の文字が一斉に消えた。
工房の外で誰かが悲鳴を上げた。水曜日までに返す約束だった借金が、永遠に返ってこなくなったらしい。
人形屋さんは窓を見た。
「名前、もう少し考える?」
「気に入りました」
水曜日は椅子の上に座り直した。
鋸がまた動いた。
ルルの胸の中で、砂が残り少なくなった。
人形屋さんが椅子の脚を直し終えたとき、時計は十一時五十八分だった。
「どう」
水曜日がからだを左右に揺らした。
椅子は揺れなかった。
「ちゃんとしてる」
人形屋さんは、嬉しくなさそうに笑った。
ルルの右手が膝から落ちた。
水曜日が拾った。
「海、また行きます」
ルルはうなずこうとした。
できなかった。
「晴れの日に」
声は出た。
「はい」
窓の外を、海の最後の一滴が帰っていった。
工房は静かになった。
ルルは、何か言っておこうと思った。
人形屋さんのこと。
水曜日のこと。
二十年のこと。
どれも、ひと言にするには長かった。
「明日の卵」
二人が顔を寄せた。
「焦がさないで」
人形屋さんが、何度もうなずいた。
ルルは、そのうなずきが止まるのを待っていた。
待っているあいだに、動かなくなった。
翌朝、卵は焦げた。
人形屋さんは火を止めるのが遅れ、水曜日は止める場所を知らなかった。
二人は、黒くなった縁を切り取った。
「玉ねぎ、入れていい?」
人形屋さんが聞いた。
水曜日はうなずいた。
ルルは、窓際の椅子に座っていた。
からだは昨日までと同じ形だった。右の口角が少し上がっていた。朝の光が頬にあたり、それから膝へ移っていった。
棺桶は、工房の庭で洗われていた。
蓋はどこかへ行ったままで、帰ってこなかった。
街からは苦情が来た。水曜日がなくなったので、燃えるごみをいつ出せばいいのかわからない。映画館は毎週水曜日の割引を彼女に渡そうとした。水曜日は、映画なら自分で観に行くと答えた。
弔問客は、しばらく戻らなかった。
海の底で、順番を待っているらしい。
その日の昼、人形屋さんが工房の看板を裏返した。
表には、前からこう書いてあった。
〈本日、未来は予定どおり〉
裏に、何と書こうか迷った。
水曜日がペンを借りた。
〈本日、未来は気分しだい〉
書き終えると、ペンの蓋を閉めた。
「海、晴れたら行ってきます」
人形屋さんは、空を見た。
「うん」
雨の下書きが、消えかけていた。
数日後、水曜日は海へ行った。
今度は、下にあった。
波は並ばず、好きなところで崩れていた。水曜日は靴を脱ぎ、濡れた砂へ足を置いた。
左の親指に、砂がついた。
しゃがみ込んで払おうとすると、波が来て、それを持っていった。
水曜日は顔を上げた。
大きかった。
前に見たときも、大きかった。
コートのポケットから、コロッケの包みを出した。
二つ買っていた。
片方を膝に載せ、片方をかじった。
少し冷めていた。
遠くで、鐘の泡がひとつ浮かんだ。
水曜日は、隣の包みに手を伸ばしかけた。
戻した。
波が来た。
「しょっぱいね」
答えはなかった。
もうひと口、食べた。